アンデスの歴史の中でもインカ帝国の名はよく知られています。
スペイン人の征服によって劇的に崩壊してしまった国として強い印象の方が強いかもしれません。
南アメリカ最大の古代国家の一つといえますが、それは過去にアンデス各地で延々と蓄積されてきた文化を
集大成したものと考えられます。
国の始まりは神話伝説に包まれていますが、15世紀はじめ、第9代皇帝がそれまで小競り合いを重ねてきた
チャンカ俗を撃退し、周編の小社会の均衛が崩れはじめたころから歴史的出来事として認識されるようです。
以後インカとしての領土拡大の歴史を築くことになります。
その方法は必ずしも軍事行動によるものではなく、膨大な贈答作戦によったものと考えられます。
相手方の首長への贈り物と饗応の見返りに、その共同体組織そのままをインカのそれに組み込んでいった
のです。
領土が拡大するとともに、皇帝の代理者としての行政長官を各地に赴かせ、統治に努めさせました。
この巧みな組織化は皇帝の地位が継承されていく間に、より堅牢なものになります。
タワンティン・スーユと呼ぶ四分割された領土を更に県、郡、村に区分し、それぞれに長を選出し、それらが
全て、首郡クスコの最高会議の主たる皇帝を頂点にしたピラミッドに包含されていました。
組織の末端を構成する住民の食糧、衣服、家畜のことから、村、県単位の耕作状況、懽漑施設の現状、
人口移動等々の情報が、それぞれの長や役人の管理のもと常に把握されていました。
それは専門の飛脚が、既にワリ期からあってインカ時代に再整備と拡大がなされた道路網を走って
もたらされました。
皇帝は太陽神を祖先とし、見事に統一されたインカ帝国の頂点に立っていました。
アンデス文化の中でも、とりわけ謎が多いのがワリ文化です。
現在のボリビア共和国西北にあるティティカカ湖の南側の岸400mの高原地、
ティアワナコから波及し、次第に拡大してペルー中央高原、アヤクーチュを中心に定着しました。
宗教的拡大あるいは軍事征服なのか、単なる文化様式なのか今の所、明確になっていません。
しかし、ワリ様式の土器が瞬く間にアンデス各地に広がりました。
そこでは集落の形態にも変化が見られました。
高い石垣に囲まれ、内部は細かく区画整理された都市計画空間でした。
ある遺跡では推定10,0001〜30,000万人の人々が暮らしていたといわれています。
ワリに影響される以前は点在していた集落が新たに建設された計画都市に移転し、その跡には
高度差を利用した耕作地が階段状に拓かれていました。
これはインカ時代に入って各地に見られる見事な階段耕作地の基礎になるものでした。
勿論、このような都市の出現は、充分な食料の確保が保障されていたことを示すものです。
近年の研究ではアンデスの人々の主食はじゃが芋類であったことが証明されつつあります。
寒冷地でも育つじゃが芋を中心に既に出揃っていた栽培種を高度に応じて育成し、都市を支えていたのです。
アンデス文明は主に海岸の乾燥地帯と3,000〜4,000mに及ぶ山岳地帯に栄えました。
とりわけこのような高地に存在した文明は他に例をみません。
その理由は高度差を利用した栽培食物の育成とリャマ、アルパカの放牧にありました。